時雨の日記

時雨という哀しき男のブログ

孤独

 人はどこまで行っても孤独だと思う。知人、友人、恋人、血の繋がった家族でも100%理解してくれる人間はいない。自分でさえ自分のことがわからなくなるときもあるから当然ではある。

 俺は友達が少ない。その友達も自分から連絡しないとまず連絡が来ない。休日に遊ぶこともほとんどなかったから友達といえるかも怪しい。そんなもんだから一人暮らしをしていたときは基本独り部屋の中だった。虚しく響く静寂。台所の蛇口から落ちる水滴だけがいやに聴こえた。その虚しさを埋めるためにインターネットやギターで無心になろうとした。しかし終えてから途方もなく虚しさが襲ってくる。頭の中をたちの悪い考えが巡る。螺旋階段を降りていくようにそれは深くしかし確実に頭に入り込んでいく。孤独は病だ。心も体も不健康になっていく。実際孤独は死亡率を引き上げるという研究結果もでているそうだ。

 俺の一人暮らしはまさに不健康そのものだった。過睡眠、昼夜逆転、ヤニ、暴飲暴食。全て寂しさを埋めるための苦肉の策だった。空いた缶チューハイが転がってない日はなかった。当然心身ともに不調を感じる日が多くなった。ヒモをドアノブにかける日もあった。どうしようもなく心が不健康に飢えていたんだと思う。

 友人に相談したこともある。親にも話したことはある。しかし返ってくるのは薄い同情だけ。あまつさえ死体蹴りしてくるやつさえいた。お前の責任だと。俺は基本人に期待してはいけないと覚えた。他人に期待したところで傷つくのは自分だと。いい反応が返ってくるのは奇跡である。当たり前だが100%わかってくれる人間はいない。よくて30%も理解してくれたら親友なのではないだろうか。人間関係はその%を妥協していくものじゃないかとも思った。ある一定の%を越えたところで人間関係を維持していく。一定の%を下回った関係は切れていく。きっと皆も無意識でやっていることなのだろう。俺はその当たり前なことに20を過ぎてからやっと気づいた。結局人が触れられる他人の領域はたかが知れている。自分さえ触れられない無意識の領域もあるのだから当然だ。そういう意味で人は孤独なのだ。

 虚しい日々の中、人との繋がりに餓えた俺はTwitterを始めた。Twitterで自分を吐露し、いいねという承認を貰うことで少し救われた。初期は自分と似たような人達をフォローしていたから似たような悩みで悩んでいるツイートを見ては共感と安堵を感じていた。文字と文字のやり取りでは満足できなくなった俺はツイキャスを始めた。生の声で話したくなったのだ。ぼちぼち人が来てくれるようになり自己肯定感とまた少しずつ自己表現力の向上を感じるようになった。俺はそんな繋がりの中フォロワーさんと通話する機会を得た。初めて生の声同士で話すことに緊張感を覚えていたがそのフォロワーさんも似たような悩みを持ち、自分の悩みも共感してくれた。俺は本当に救われたしありがたかった。

 人は社会的な生き物だ。人と人が繋がり、一丸となってきたから人間社会はここまで発展できたんだと思う。仮に無人島に一人で住んでいたとしても漂流物やら必ず人間の関わりはある。人間の関わりを全く0にすることはできない。社会的な生き物だから人との繋がりはある種本能的なところがあって抗うのは大変だと思う。今の時代、人との繋がりを作りやすい時代になった。もちろんそれ故の人間関係のトラブルや繋がりやすさ故の関係の希薄化など問題はあるがここでは取り上げないでおく。俺はTwitterという媒体を通して人と繋がれて確かに救われたと思う。しかしどこまでいってもネットの関係なのも事実。来年復学して俺は現実の人間関係に向き合わねばならない。現実の人間関係をどこまでうまくやれるかはわからないが、俺は繋がりの大事さや維持の仕方を僅かではあるがTwitterを通して学べることができた。俺はもう、逃げない。

 

ありがとうございました。