時雨の日記

時雨という哀しき男のブログ

ブログ開設

12時を過ぎ、一人向井秀徳の音楽を聴いていたとき、ふと言葉に触れ、漠然とした不安感と期待を覚えた。

 言葉で伝える、という当たり前でしかし得てして難儀な事は他者を介して自分を見つめ直す手段になるのではないか。伝えた「つもり」。普段から行っているからこそ無意識に落とし込まれていき必要不可欠な他者という存在が自分のなかでなくなっていく。自己満足の中、生まれる欺瞞と勘違い。いずれ鋭利な刃となり自分どころか人に向くのかもしれない。

 しかし言葉を感じ理解し、伝えることができたなら、自分と他者を豊かにする一つの手段になるとも考えた。言葉は同じ内容でも形一つで冷たくも暖かくもなる。その温度は人の心を凍らすことも熱く震わせることもできる。俺はこれまで言葉に触れてきた中で幾度となくそれを感じていた。人間という社会的な生き物に生まれ落ちたからには他者との交流は避けられない。必ずどこかでなにかの繋がりがある。それは言葉という人間に許された道具で豊かにもできるという期待。稚拙な自分の言葉の伸びしろは今までとこれからの繋がりをより彩るための可能性であると。

 俺はブログを開設していた。文字数の制約もなく、アーカイブで残る。いつでもその時その時の己の鏡となると思った。好奇心と初期衝動もあったと思う。いずれにしろこのような経緯から始めてみた。

 

宜しくお願いします。